余市に来たら ニッカ工場見学でしょう

サンダーソニアM

2012年10月16日 18:55

雨の予報が外れたようで、ドライブ日和でした。
昼食を終え、ニッカウイスキー工場見学をする事にしました。
7月、主人の一周忌法要の時、横浜からのお客様が見学していらした所です。
北海道の我々は知らない事ばかり…

今日は婿殿の希望もあり見学することに。

入り口は、ニッカの看板になっいます









トンガリ屋根が可愛い









ブラックニッカのラベルに書かれているキャラクターは、
いくつものウイスキーの香りをききわけることができるブレンドの名人キング・オブ・ブレンダーズ氏

ブレンダーズ氏のキャラクターは、ススキノに今も健在です









蒸留棟、伝統的な石炭直火、アルコールをとりだす火入れ
幸運な事に「本日は、火入れを行っています」









原料の大麦を乾燥して、発酵液を熱することで香味成分やアルコールを取り出します。
ポットスチルの形や加熱方法により、タイプの違った原酒がつくられるとの事。









ニッカの敷地はとにかく広い。
旧研究室昭和9年~59年まで、数々のウイスキーを世に送り出していた









1号貯蔵庫から。憧れていたショットです~嬉しくて舞い上がり平均がとれていません
観光客が入ってしまったのでトリミングしています








ニッカウイスキーの父 竹鶴政孝氏と妻リタのロマン。

竹鶴政孝、広島の造り酒屋に生まれ。
家業を継ぐ為に大阪高等学校で酒造を学び。
大坂摂津酒造で修行していた政孝24歳の時、
「スコットランドに行って、モルトウイスキーの勉強をしてこないか」と言われ、
大正8年、日本人で初めてウイスキー蒸留所実習へとスコットランドに行きました。

リタとの出会い。
リタの実家であるカウン家は開業医の父が急逝した為、母と姉弟四人姉弟で暮らしていました。
そのカウン家の末弟に柔道を教えるために招かれたのがきっかけでした。

初めてリタに逢った時、まだ文学少女の面影が残っていたと言います。

その年、カウン家のクリスマスに招かれました。

カウン家では、毎年6ペンス銀貨と指ぬきを入れた大きなブディング・ケーキを作り、
招かれた独身の男女に切り分けられ、ケーキの中に入っている者同士が、将来結ばれると言う伝えがあった。

その夜。
銀貨が政孝に、指ぬきはリタのケーキから出てきました。
次第に心を通わせあった二人。

政孝の帰国がせまって来ていました。

政孝は「もしあなたが望むのなら、日本に帰るのを断念して、この国にとどまります」と
リタは「マサタカさんは大きな夢に生きていらっしゃる。私も夢に共に生きたい、お手伝いしたいのです。」
リタは日本で生きる決心をします。


余市で暮らしたリタは、日本人以上に日本人らしく夫を支えていました。

昭和15年以降はリタにとって、つらい日も多かったようです。
「いつも特高警察が見張っていました」
家のラジオのアンテナを「暗号発信機じゃないか」と、調べられたこともあると…
その当時、何かとリタのお世話をしていた社員の話です。

政孝の目指すものに共感して、共に生きたいと暮らしているだけなのに…
当時を思うと、いたし方の無いことなのか…!!!

リタは故郷のスコットランドに帰りたいと、一度も言わなかった。
ただ「この鼻がもう少し低ければ。目も髪も、日本人のように黒くなれば」
ともらしていた事はあったそうです。

なんて愛らしい女性でしょう、壁の説明書をを読んでいて心に響きました。


リタのお墓は余市蒸留所を見渡す所に建てられています。


まだまだお話したい事がありますが、長くなってしまいましたのでこの辺でで失礼いたします。

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